時を超え語り継がれるは
古の義経伝説
日本各地に数々の伝説を残す源義経は、平安時代末期の武将です。鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟にあたり、子どもの頃は牛若丸と呼ばれました。京都の五条大橋で弁慶と一戦を交えて家来にしたという物語を読んだことがある方も多いのではないでしょうか。
実は小松島にも、そんな義経にまつわる伝説がたくさん残っています。平家と源氏の戦いである「源平合戦」の際、彼は戦の天才として数々の功績を残しました。なかでも有名な戦いが、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、そして平家を討ち滅ぼした壇ノ浦の戦いの3つ。このうち、屋島の戦いの時に大阪の港から出港した義経が、最初に上陸したのが小松島と言い伝えられているのです。義経の狙いは、敵の背後から奇襲をかけるため、兵馬をひそかに四国に上陸させることにありました。
暴風雨のなか小松島にたどり着いた義経は、それぞれの軍船に乗っていた家来たちを集結させ、源氏の象徴である白旗をかかげて士気を高めました。この時、家来たちを集めた場所を「勢合」、白旗を立てた場所を「旗山」と呼び、今の地名として残っています。
そしていよいよ屋島への進軍が始まるのですが、この時に通った道が、今に伝わる「義経街道」です。義経は平家側についていた熊山城と桜間城を破り、県境にある大坂峠を渡って、一夜のうちに屋島にたどり着いたと言われています。
このうち、義経ゆかりの地を結ぶ小松島市内の約10キロメートルは「義経ドリームロード」と名付けられ、案内板や道標などが立てられています。車で移動すれば1日で回ることもできるので、観光ルートとしてもお勧めです。当時に思いを馳せながら、伝説の地を巡ってみてください。
一ノ谷の戦いに敗れ、讃岐屋島に逃れた平家軍を追討する命を受けた義経。
摂津渡辺の津(現在の大阪市北区)から20隻の船で漕ぎ出し、紀伊水道を南進、折からの暴風雨に乗じて、通常2日かかる行程をわずか6時間で阿波の国勝浦(現在の小松島市)にたどり着いた。寿永四年(1185年)の話である。
軍船を集めたとされる伝説の始まりの地「勢合」には、県道から国道に抜ける道沿いに石碑が建てられている。
住所 | 国道55号周辺(赤石トンネル北側) |
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勢合
摂津を出航した義経軍が、わずか6時間で小松島に到着し軍船を集めて勢揃いした場所。近くには義経馬蹄洗池、弁慶勢くぐりの岩、弁慶橋といった伝承地が存在しています。
田野町勢合
釈迦庵
釈迦寺谷にかつて存在した寺。旅の安全を祈る仏足石や、安産祈願のむつき堂が今も残っています。古道に面するこの付近を義経は一気に駆け抜けました。
田野町中須
弦張坂
釈迦庵の横手から伸びる緩やかな上り坂。峠の向こうに潜むかもしれない敵を警戒して弓の弦を張ったまま登ったことから、この名前が付けられました。
田野町中須
弦巻坂
この坂の向こう側に敵の姿がないことを確認した義経は、配下に弓の弦を巻かせました。弦巻坂から旗山へ向かう間に県の天然記念物に指定されている「びらんじゅ」の木があります。
田野町恩山寺谷
旗山
騎馬像として日本一の義経像がそびえる旗山。その高さは6.7mを誇ります。義経はこの地に源氏の旗印である白旗を掲げ、武将たちの士気を鼓舞し、屋島をめざしました。
芝生町宮ノ前
天馬石
その昔、源平合戦で名を馳せた名馬・池月が天から舞い降り、この地で石と化したという伝説があります。この石にまたがると、腹痛を起こしてしまうとも言われています。
芝生町宮ノ前
弁慶の岩屋
土地の豪族の横穴式古墳で6世紀の後半につくられました。「弁慶ほどの力持ちでなければつくれないだろう」ということから、地元の人々によって弁慶の岩屋と名付けられたと言われています。
芝生町大獄
新居見城趾
義経に協力し、屋島までの道案内を買って出た近藤六親家(こんどうろくちかいえ)の居城跡。当時は周辺に200余名の配下を抱える、地元の有力な武将だったと言われています。
新居見町東山下
くらかけの岩
新居見城趾に近い春日神社の境内にある大岩。熊山城攻略のため進軍する義経が、戦を前にこの岩に馬の鞍を下ろして、休憩をとったとされる場所です。
新居見町山路
中王子
勝浦川を挟み対岸に位置する熊山城を攻略すべく、陣を構えた戦略を練った場所。義経はここから一気に川を渡り平氏軍を急襲し、勝利を掴んだと言われています。
田浦町中西