義経伝説

源平争乱の時代、伊豆に兵を挙げた源頼朝は、平氏政権に不満を持っていた関東武士の支持を得て鎌倉に進出し、富士川の戦いで平家軍に大勝して鎌倉幕府を開きました。頼朝は、平家軍追討のため弟の範頼と義経を大将とする大軍を西へ送り、一ノ谷(今の神戸)と屋島(高松市)で平家軍を破り、壇ノ浦(下関市)で遂に平家を滅ぼすのです。この源平合戦のクライマックスである一ノ谷の合戦から屋島の合戦の間に小松島が登場します。
一ノ谷の戦いに敗れ、讃岐屋島に逃れた平家軍追討の命を受けた義経は、摂津渡辺の津(今の大阪市堂島)から20隻の船で漕ぎ出し、紀淡海峡を南下、折からの暴風雨に乗じて、通常2日かかる行程をわずか6時間で阿波の国勝浦(現在の小松島市)に漂着しました。
寿永四年(1185年)2月18日早朝のことでした。
義経が率いた軍は、精兵わずか150余騎、地元の新居見城主・近藤六親家の先導を受けて、現在の小松島市を横断して土佐街道を北へ進み、勝浦川を渡り、平家方の熊山城(徳島市)、桜間城(石井町)を攻め破り、夜を徹して難所とされる大坂峠を越えて讃岐国に入りました。19日には、屋島に近い牟礼に押し寄せ、背後から平家軍を攻撃、義経軍の奇襲を受けてあわてた平家軍は海に逃れ、源氏は屋島の戦いに勝利したのです。

この義経の小松島上陸を記念して、毎年地域の住民によって「義経夢想祭」が行われています。
また義経軍の経路とされている義経街道(約10km)を「義経ドリームロード」として、案内板・道標を設置、整備しています。

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